YAMATO LUCY BIKE
ヤマトラッキー号と増田鉄工所
私たち増田鉄工所は、戦前より、モノ作りのまち・浜松とともに発展してきました。創業から1世紀以上、この地で培われてきた「挑戦する」精神。その原点を象徴する、1台のバイクとの物語をご紹介します。
ヤマトラッキー号とは?
昭和20年代前半、(有)ヤマト商会が製造・販売したオートバイ。エンジンは4ストローク・排気量90cc、販売価格は55,000円。当時の大卒銀行員の初任給が5,500円、映画の入場料が約100円だった時代のことです。
製造拠点を求めて、増田鉄工所へ
当初、ヤマト商会はオートバイの販売店でしたが、仕入れ先メーカー(現在もオートバイを製造しているH社)からの入荷が思うように進まず、自社での製造を決意します。しかし製造技術・設備を持たなかったヤマト商会は、拠点を求めて奔走した末、増田鉄工所にたどり着きました。昭和22年のことです。
当時の社長・増田惣吉はこの話に大いに興味を持ちましたが、ひとつ問題がありました。当社には、加工技術はあっても、エンジンに関する知識や図面はなかったのです。では、どうしたか。答えは単純で、中古の外国製エンジンを手に入れ、自ら分解して構造を調べました。「製造拠点もできた、仕組みもわかった、あとは作って売るだけ」──ヤマト商会はそう思ったかもしれません。しかし、物事はそう簡単には進みませんでした。
試行錯誤の末、試作車完成
当社でもいよいよ試作が始まりました。エンジン部品にはさまざまな材質を使用するため、各分野の専門業者に粗材の製造を依頼しましたが、どこも初めての仕事。良いものが出来るはずもなく、試行錯誤の連続となりました。
内部に「巣」と呼ばれる異物が固まって残ってしまう現象が起き、切削加工をするたびに不良品が出る始末。最善の粗材を求めて、素材を変えては削り直す繰り返しでした。ミッション・ギヤーは、鉄系の粗材だとそのまま使うには柔らかすぎるため、熱を加えて硬くする「焼き入れ」という工程が必要になります。この焼き入れの加減が難しく、焼きが甘いとギヤーが変形して噛み合わなくなり、逆に硬くしすぎると今度はもろくなって歯が欠けてしまう。その絶妙な加減を見つけるのに、大変苦労しました。クラッチは当時製造するメーカー自体が少なく、わざわざメーカーへ出向いて「2個でも3個でもいいから売ってくれ」と直接交渉。なんとか入手したものの、繋がらない・切れないなど、調整に苦労しました。
話が持ち込まれてから約2年。試行錯誤を重ねた末、ついに試作車が完成しました。
東京での展示会、
注文殺到
試作車が完成した段階で、また新たな問題が…。「販売ルートがない!」
しかし、ここまで来ればそれほど大きな問題ではありませんでした。名古屋の自動車会社に相談したところ、東京の「安全自動車」を紹介してもらい、販売ルートを確保することができました。安全自動車は当時「東の安全自動車・西のバンザイ自動車」と並び称されるほどの有名企業です。
試作車を持ち込んだところ「すばらしい!」と高評価を受け、さっそく日本橋のデパートのショーウィンドーに展示されることになりました。するとたちまち注文が殺到。その後、浜松市内でも展示会を開催し、さらに多くの注文が集まりました。
当時、組み立て後のエンジンは焼き付き防止のため、長時間の慣らし運転が必要でした。数十台を並べ、途中で潤滑油を注ぎながら一日中運転し続けるのが常でした。慣らし運転を終えると、次は実車に乗せてテスト走行へ。当時のテストコースは、浜松に30社以上あった同業他社と同様、浜名湖周辺が使われていました。ラッキー号は高性能で、他社のオートバイをやすやすと追い越すほどでした。「俺の所のオートバイは、最高だな!」とは、当時テストライダーも務めていた会長・増田幸太郎(故)の言葉です。テスト走行を終えたエンジンは別の車体に載せ替えられ、販売へと至っていました。
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生産拡大と、図面をめぐる葛藤
当時、当社の生産能力は月25台。しかし注文は増える一方で、とても当社だけでは対応しきれなくなっていました。ヤマト商会も安全自動車から「金は出すから、もっと大きな工場で効率よく生産しろ」と指導を受けていたようで、当社よりはるかに規模の大きな会社へ生産拠点を移すことを検討し始めます。
ところが、ここで問題が生じました。ラッキー号の販売がすでに始まっているこの時点においても、エンジン部品の正式な図面は存在していませんでした。あるのは、調整のたびに寸法を書き直した簡単なスケッチだけです。それでも図面は、長い時間をかけて試行錯誤の末に作り上げた、会社の大切な財産でした。当社も職人気質ゆえ、「俺たちが苦労して作り上げた図面を、なぜ他社に渡さなければいけないんだ」という思いは強くありました。
結果として他社に渡ったのは「最初の図面」でしたが、前述の通り、当社の図面は調整のたびに何度も書き直しを重ねてきたものです。最初の段階のものは実際の寸法とはまったく異なっており、それをもとにしても他社ではエンジンを完成させることができませんでした。それでも、注文は増え続ける一方です。
125cc化の挫折と、
ラッキー号の終焉
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注文の増加に対応するため、部品加工メーカーの数も当初より増やし、ヤマト商会もオートバイの組み立て工場を新設。生産台数は月600台まで拡大し、この頃には「月1000台」を目標に各社が取り組んでいました。
そのころ、法律の改正によりオートバイの排気量上限が90ccから125ccへと引き上げられました。ヤマト商会はいち早くラッキー号に125ccエンジンを搭載し、新型として発表することにします。しかし、この125ccのラッキー号、走らなかったのです。出来上がっているのは形だけの状態でした。
ヤマト商会は「必ず動くオートバイにするから」と言って、安全自動車にて盛大な発表会を開催し、当社もこれに協力しました。しかし、ラッキー号はいつまでたってもまともに走らず、走ってもすぐにエンジンが焼き付いてしまう有り様でした。その後、資金難に陥った(有)ヤマト商会は昭和30年5月に閉店。ラッキー号もこの年をもって生産中止となり、姿を消しました。
当社はその後、債権の回収に奔走しましたが、回収は困難で、当社も精算せざるを得ませんでした。「オートバイの仕事は、もう懲り懲りだ」──会長・増田幸太郎(故)はそう思ったそうです。しかし、その後も増田鉄工所はオートバイ産業と関わり続けることになります。