●(有)ヤマト商会と増田鐵工所 3

試作車が出来た段階で、又、新たな問題が・・・、

  「販売ルートが   無い!」

ですが、ここまで来たらそれほど大きな問題ではありませんでした。
名古屋の自動車会社に相談したところ、東京の『安全自動車』を紹介して貰い、
販売ルートの確保が出来ました。
(安全自動車とは、当時、「東の安全自動車・西のバンザイ自動車」と言われるほどの有名な会社でした??)

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その4へ続く
そして、試作車を安全自動車に持ち込んだところ、
 「すばらしい!」
と高評価で、早速日本橋にあるデパートのショー・ウインドーに展示したところ、

   『注文殺到!!』
嬉しい悲鳴が上がりました。

その後、浜松市内でも展示会を行い、さらに多量の注文が殺到することになったのです。

その頃のエンジンは、組み立て後、焼き付き防止のため、長時間の慣らし運転を行っていました。
途中、潤滑油を注ぎながら、数十台を並べ一日中運転をしていました。

慣らし運転が終わると、次は実車に乗せテスト走行。

当時のテストコースは、他社(浜松に30社以上)もそうであったように、浜名湖周辺でした。
ラッキー号はなかなかの高性能で、
他社のオートバイを易々と追い越していました。

 「俺の所のオートバイは、最高だな!」

とは、当時テスト・ライダーも勤めていた会長 増田 幸太郎(故)の感想です。

テスト走行が無事終了したエンジンは、又、別の車体に載せ替えて、
販売に至っていました。

<安全自動車前にて>